LOGIN休日のショッピングモールは、家族連れとカップルで賑わっていた。
エスカレーターの上から見下ろすと、人の流れがまるで波のように動いて見える。 朱里はその中に立ちながら、少しだけ息を吐いた。 「中谷先輩! こっちです!」 瑠奈が手を振って駆けてくる。白いブラウスにベージュのスカート。 その笑顔は相変わらずまぶしくて、まっすぐだ。 自分とは違う種類の“太陽”みたいだと、朱里はいつも思う。 「ごめん、待たせた?」 「いえ、私が早く着きすぎただけです。……あ、カフェ寄っていきません? 朝ごはんまだなんです!」 カフェ。その単語に、朱里の心がわずかに跳ねた。 昨日の光景が、ふいにフラッシュバックする。 窓際の席、嵩の笑顔、あの穏やかな時間。 「……そうだね部屋の灯りを落としたまま、嵩はベッドの端に腰掛けていた。 スーツを脱ぎ、ネクタイを外しても、胸の奥の重さだけが残っている。 ──転勤。 通達を受けた瞬間から、この言葉は“事実”になった。 もう曖昧にはできない。 朱里に伝えなければならない。 けれど問題は、いつ、どこで、どう言うかだった。 職場は違う。 今日の空気を思い出すだけで分かる。 あの場所は、噂と視線が先に立つ。 LINEも違う。 文字にした瞬間、彼女の表情が見えなくなる。 誤解も、逃げ道も、そこにはいくらでも生まれてしまう。 電話も、違う。 声だけでは足りない。 沈黙の意味も、間の取り方も、朱里には伝わらない気がした。 嵩は、無意識にスマートフォンを握りしめていた。 画面には、何も表示されていない。 「……ちゃんと、向き合えよ」 誰にともなく呟く。 朱里の顔が浮かぶ。 怒った顔でも、泣いた顔でもない。 職場で見せた、あの“普通すぎる笑顔”。 あれが一番、怖かった。
瑠奈の一言が去ったあとも、フロアの空気は元に戻らなかった。誰もが“聞いてしまったもの”を胸の奥にしまい直すように、キーボードを叩く音だけが不自然に大きく響いている。朱里は、画面を見つめたまま、指を動かしていた。数字も文言も、頭には入ってこない。それでも手だけは、いつも通りに動いてしまう。──転勤。はっきりした言葉は、まだ誰からも聞いていない。けれど、嵩の背中が、今日はやけに遠く見えた。昼過ぎ、コピー機の前で、朱里は美鈴と並んだ。用紙をセットする手が、わずかに震えているのを、美鈴は見逃さなかった。「……朱里」名前を呼ばれて、朱里は小さく肩をすくめる。「大丈夫です。仕事、溜まってるだけで」美鈴は、それ以上踏み込まなかった。今の朱里には、“優しさ”より“余白”が必要だと分かっていたから。コピー機が低い音を立てて動く。その間、朱里はぽつりと呟いた。「聞いたら、何かが終わる気がして」美鈴は、紙を受け取りながら、静かに答えた。「聞かなきゃ、始まらないこともある」朱里は、何も返さなかった。ただ、コピー用紙を胸に抱え、深く息を吸った。夕方。嵩は、何度目か分からないため息をつき、スマートフォンを手に取った。
その日、部署の空気はどこか張りつめていた。嵩の転勤が“ほぼ確定”ではなく、“事実として共有されたあと”の、独特の静けさ。誰もが知っているのに、誰も正面から触れない──そんな薄い膜が、フロア全体を覆っていた。その膜を、ためらいなく破ったのが瑠奈だった。「嵩さんって、向こう行く気なんですよね?」昼休み前、給湯室から戻った直後。あまりに唐突で、あまりに率直な一言に、周囲の手が一斉に止まった。「……瑠奈」美鈴が低く名前を呼ぶ。制止のつもりだったのだろう。けれど瑠奈は、悪びれもしなかった。「だって、みんな気にしてるじゃないですか。行くのか、残るのか。本人だけが黙ってるの、変じゃないですか?」視線が、嵩に集まる。同情でも好奇心でもない。ただ、“答え”を待つ目。嵩は一瞬、言葉を探した。ここではまだ言えない。朱里にも、まだ──。「……正式な話は、これからだ」それだけ告げると、瑠奈は小さく首を傾げた。「じゃあ、朱里さんには?」空気が、音を立てて沈んだ。美鈴が一歩前に出る。「それは──」「まだだ」嵩が、静かに遮った。瑠奈は数秒、嵩を見つめてから、ふっと息を吐いた。「そっか。じゃあ聞かないです。でも──」彼女は少しだけ、声を落とした。
午後のオフィスは、いつも通りのはずだった。 キーボードの音。 電話の呼び出し音。 コピー機の低い唸り。 なのに──朱里には、全部が少しだけ遠かった。 (……何も言われてない) (誰にも、何も) それなのに。 自席に戻る途中、視線を感じる。 誰かが見ている、というより 誰もが、見ないようにしている感じ。 「中谷先輩」 声をかけてきたのは、瑠奈だった。 いつもより、ほんの少しだけ声量が抑えめ。 「この資料、確認お願いしてもいいですか?」 「……うん、いいよ」 受け取りながら、瑠奈の目を見る。 探るようでも、疑うようでもない。 でも、いつもより“距離を測る目”。 「ありがとうございます」 そう言って戻っていく背中が、妙に真っ直ぐだった。 (……勘のいい後輩って、怖い) 席に着くと、隣の部署の会話が耳に入る。 「平田さん、午後外出だっけ?」 「いや、今日はずっと社内のはず」 ─
会議室のドアが、静かに閉まった。 昼休み直前。 誰もいないはずの時間帯を、嵩が選んだ。 「……座ろうか」 そう言われて、朱里は頷く。 向かい合って座る距離が、やけに遠く感じた。 机の上には、何もない。 資料も、メモも、逃げ道も。 嵩は一度、息を整えるように胸を上下させた。 「昨日、話すって言ったこと」 「……うん」 声が震えなかったことに、朱里自身が驚いた。 嵩は目を逸らさない。 「転勤の話が、正式に来た」 ──きた。 頭では分かっていた言葉なのに、 実際に聞くと、音が違った。 「四月付けで」 「……場所は?」 聞けた。 逃げなかった。 「関西支社」 「ほぼ確定だ。最終確認だけ残ってる」 “ほぼ確定”。 それは、もう決まっているという意味だった。 沈黙が落ちる。 時計の針の音が、
部屋の電気をつけたまま、朱里はソファに座り込んだ。上着も脱がず、バッグだけ床に置く。(……聞くって、言っちゃった)自分で言った言葉なのに、胸がざわつく。スマホの画面には、嵩からの最後のメッセージ。《明日、全部話します。逃げないで、聞いてください》逃げない。簡単に言ったけれど、実際は“逃げ道が見えてしまう”夜が一番怖い。転勤。はっきり言われたわけじゃない。でも、分からないほど鈍くはない。(場所が変わる) (時間が変わる) (距離が変わる)そしてきっと──関係も。立ち上がって、キッチンで水を一杯飲む。喉を通る感覚だけが、現実に引き戻してくれる。(もし、行くって言われたら) (私は、どうするんだろう)“ついて行く”なんて、簡単に言えない。仕事も、生活も、積み上げてきたものがある。でも。“行かないで”も、言えない気がした。(……好きだから)その事実だけが、逃げ場を塞ぐ。スマホが震える。瑠奈でも嵩でもない。田中美鈴だった。《起きてる?》短い文なのに、すべて見抜かれている気がする。《起きてる》